湘南の砂防林を守る農薬は必要?農薬散布中止を求める署名運動と自治体の対応をレポート!
湘南海岸の砂防林は、海辺から飛んでくる砂や強風から住民の暮らしを守る存在として、長い間愛され、維持されててきました。この岸砂防林を管理する神奈川県の出先機関、藤沢土木事務所に対して、砂防林の管理に用いられているネオニコチノイド系農薬散布の中止を求める署名が提出されたのは、令和5年(2023年)の5月のこと。飛砂や塩害から住民の暮らしを守る砂防林を巡って、今何が起こっているのでしょうか。知っておくべき現在の状況をレポートします。
防砂林の維持、管理に使われる農薬とは?
藤沢市から大磯町にかけての海岸沿いに、およそ11kmにわたって連なる砂防林の歴史は古く、その造成が始まったのは昭和3年。砂防林を形成するクロマツを中心とした木々は生き物ですから、当然、定期的なメンテナンスや保護・育成が不可欠。現在、神奈川県が実施している主な施策は、木々が雑草やつる性の植物に侵食されたり、景観が悪化したりすることを防ぐ除草作業。そして、病害虫を防ぐための薬剤散布です。
散布されている農薬は「ネオニコチノイド系農薬」と呼ばれるもので、幅広い種類の昆虫に対する殺虫効果が期待される一方で、人への害が比較的少ないと言われています。これまで全国各地で植物、農作物を守るために使用されてきたネオニコチノイド系農薬ですが、近年は脊椎動物の慢性毒性、生態系への悪影響などが指摘されつつあります。
そういった現状の中、令和5年4月、環境問題などを考える市民団体の方々が、インターネット上で使用中止を訴える署名運動をスタート。集まった署名の一部を、散布を実施する藤沢土木事務所に提出しました。署名運動を始めたのは、食の安全や農薬のあり方を考える市民ネットワーク「食べもの変えたいママプロジェクト(通称:食べママ)」のメンバー。現在は県外に住む大磯町出身の有志が、かつての地元で行われている農薬散布に一石を投じたという形です。どのような点に問題を感じ、声を上げるに至ったのかを伺いました。
農薬の散布中止を求める署名運動
食べママは、2017年に創設されたグループで、農薬や遺伝子組み換え食品、添加物などが「食」に与える影響について、勉強会や情報交換会を行っています。その見地から、幅広く用いられているネオニコチノイド系農薬に関心を持ち、諸外国や国内の事例から懸念を抱くようになったのが、そもそものきっかけのようです。代表を務める杉山敦子さんにお話を聞きました。
今回の署名活動は、どのような経緯でスタートしたのでしょうか。
杉山敦子さん :「ネオニコチノイド系農薬」には、人体に対する悪影響など、いくつかの問題点が指摘されています。その農薬が湘南海岸の砂防林に散布されいる事実を知った湘南地区出身のメンバーが、散布の中止を求めるためにオンライン上で署名活動を始めたという流れです。
具体的にはネオニコチノイド系農薬にどういった懸念を抱かれているのでしょう。
杉山:日本を含め、この農薬を使用している国々では生態系への悪影響などを指摘する声が出ています。日本を含め、この農薬を使用している国々ではミツバチが消えるなど生態系への悪影響を指摘する声が出ています。神経毒性学の研究者である木村‐黒田純子博士は人間の脳の発達への影響について論文を発表しています。EUでは域内全面排除の動きもありますし、日本でも農業での使用をやめて自然が回復した地域が増えています。そういった点を総合的に見て、使い続けることに対して不安がある、ということです。
湘南エリアにおいては、砂防林を守るために長い間農薬の散布が行われてきましたが、今、改善の機運が高まってきている状況ですか?
杉山:2022年には、藤沢市にお住まいの方から神奈川県に対して散布中止の陳情がなされました。翌23年に私たちのメンバーがChange.orgというサイト内で立ち上げた署名ページにも反応が寄せられていて、少しずつ現状が知られるようになってきた段階かと思います。
まだ農薬散布の現状をご存じない方もたくさんいらっしゃると。
杉山:そうですね。日本は農薬に関して世界の流れに逆行してむしろ「規制緩和」をしているのが現状です。松枯れ防止でヘリコプターによる空中散布をしている自治体では住民が反対を続けているところもあると聞いていますが、まだまだ問題が存在すること自体を知らない方が多いと実感しています。湘南エリアでも、農薬散布が行われていることをご存じない方がたくさんいらっしゃいます。情報をしっかりと伝えることが大事ですね。
食べママは、「デトックス・プロジェクト・ジャパン(DPJ)」という環境関連団体と連携しているということですが、これは一連の活動に何か影響はありますか?
杉山:DPJとういのは、人間の体内の残留農薬量を検査することで、農薬が私たちの生活に浸透していることを明らかにし、極力農薬に頼らない生活を推進していこうとする団体です。食べママはこのDPJのメンバーとして、連携を取りながら活動をしています。検査という手段を通じて農薬使用の現状を多くの方に知っていただくことは、私たちの考えとリンクしています。こちらの活動もあわせて、情報の発信に役立てられればと思います。
今後の署名活動について教えてください
杉山:食の安全を考える食べママとしては、できれば子どもの脳の発達に影響することが明らかになってきた薬剤の散布をいったん中止していただきたいと思います。ただ、今すぐすべての農薬をなくせというのは無理な話であると同時に、砂防林を管理し、守るという自治体の仕事も理解しています。一方で、現に健康被害を訴えている方がいて、自然環境や生態系、ひいては食の安全を脅かすことに繋がる懸念もある以上、現行の散布の方法を見直すなど何らかのより望ましい方法を模索する必要があると思います。
大切なのは、時間をかけてでも現状を多くの方に知っていただき、対話を通じて問題をクリアにしていくこと。この署名運動がきっかけとなって、湘南地区にお住いのたくさんの方々がご意見を発してくださればと思います。幸い地元の議員さんたちの中にも、この問題について関心を持って動かれている方もいらっしゃるようなので、私たちの活動がそういうみなさんの助けになればとも思っています。
自治体が考える、農薬散布のあり方
地元自治体は、地域住民の安全で快適な生活を守るという意思の元、砂防林の維持・管理を進めています。一部の住民からの陳情や署名活動を受けつつ、どのような立ち位置で業務を遂行しているのでしょうか。所管である神奈川県藤沢土木事務所にお話を伺いました。
現状、農薬の散布は、どういった目的で、どのくらいの範囲で行われているのでしょうか。
藤沢土木事務所:藤沢市から大磯町にかけての海岸沿い、11.4kmに渡るエリアです。散布自体は昭和の時代から継続して行われています。主に、松くい虫の被害から砂防林のクロマツを守ることが目的です。クロマツが枯れると、砂防林の飛砂を防ぐ機能が低下する恐れがあるので、薬剤を散布して松枯れを予防しています。頻度としては年に一度、5月にエリアを3つに分けて、同時に作業します。作業期間はエリアによって異なりますが、最短で3日、長くかかったエリアで6日間ほどで散布を終了しました。
ネオニコチノイド系の農薬使用は一般的なのでしょうか。
藤沢:全国的にネオニコチノイド系の農薬が使われていると考えていいと思います。日本の海岸林を形成している木はほとんどがクロマツなのですが、そのクロマツを守るためにネオニコチノイド系の薬剤を散布するという考え方は、管理する側の共通の認識です。きちんと守られている海岸林に関しては、ネオニコチノイド系農薬が使用されているとみて間違いないかと思います。
散布について、事前の告知はどのようにされていますか?
藤沢:まず、4月に県が発行する「県のたより」に情報を掲載します。その後、藤沢土木事務所のホームページにも同様の情報を掲載します。散布エリアではチラシを配ったり、掲出したり、道路沿いにも散布予定を告知する看板を掲出したりしています。また、藤沢市、茅ケ崎市、平塚市、大磯町の役所にも働きかけて周知をお願いしつつ、散布場所周辺の小・中・高校にも直接告知するようにしました。
散布の方法について教えてください。
藤沢:空中散布ではなく、農薬の飛散を極力抑えるために地上から薬剤を吹きかける形で散布しています。エリアによっては幹に直接薬剤を注入する手法を取ることもありますが、これは細い幹の松には使えないという欠点があるので、散布エリアの状況に応じて使い分けています。散布時間は、深夜0時から早朝5時までという人や車の往来が少ない時間帯を見計らっています。
農薬散布の中止を求める署名活動に対してどのように対応されているのでしょうか。
藤沢:そういったご意見があることは承知していますし、県の方になされた陳情などについても、私どもの元へときちんと降りてきております。私どもとしてはその都度関連した情報を収集し、できる限りご要望に沿えるよう、改善できることは改善し、対応させていただいているところです。ただ、専門家のご意見も伺い、さまざまな検討を踏まえたうえで、薬剤散布そのものを止めるという結論には至っていないというのが現状です。他に砂防林を守る方法がありませんので、続けさせていただいているということをご理解いただければと思います。
農薬の変更などを考えられたりはしていますか?
藤沢:すべての農薬は国が審査登録したもので、用量・用法を守ることで人や生物への安全を確保しています。お寄せいただくご意見やご質問を見て、みなさまがネオニコチノイド系農薬に関するさまざまな情報を受け取っておられるのは承知しておりますし、EUはじめとする他国の現状も把握しておりますが、県としてはそういった情報も把握させていただきつつ、国の定める基準とルールに沿って散布を行なっています。「人体に影響の少ない」基準値は守っていますので、今のところ代替の農薬を使うことは検討しておりません。また、松枯れ予防のための農薬は、現在登録されている中での選択となり、現在代替となる農薬はありません。
県議会以下、市町村レベルの議員さんたちからの問題提起もあるのでしょうか。
藤沢:関心をお持ちの方はいらっしゃいますね。ただ、「絶対反対!」というスタンスではなく、「きちんとした知識を持ったうえで、住民の方々の不安を取り除いて欲しい」というお言葉はいただいていますので、それを踏まえて最善の方法を考えていこうと思います。
今後、同様の指摘や陳情なども増えてくるのかなと思いますが、どのように受け止められていくお考えでしょうか。
藤沢:もちろんその内容にもよりますが、極力耳を傾け、できることは対応していくという姿勢に変わりはありません。健康上の特別な理由をお持ちの住民の方には個別に対応していきますが、説明会などの開催は考えておりません。何よりも、このエリアに不可欠な存在である砂防林を、これからもしっかりと守っていきたいと思っています。その中で寄せられる声に対する検討は続けていきますし、疑問や不安の声にはその都度真摯に対応してまいります。
地域全体で砂防林の「未来」をイメージ
木々を守るための方法として、国が定める基準値を下回る量の農薬を使用しているという立場の行政があり、その農薬について、国内外で有毒性の議論が生まれている状況を重視する住民のみなさんがいる。とはいえ、真っ向から対立することが得策だとは思えません。大事なのは住民、行政ともに十分な情報を精査し、双方が納得したうえで事を進めるということではないでしょうか。今回、農薬散布に懸念を持ち声を上げ、行動するみなさんと、湘南地域の生活を守る砂防林の維持を担う自治体のお話を伺う中で感じたのは「自分たちの住む街を良くしたい」という思いは共通しているということでした。だからこそ、一緒に最善策を見つけなくてはなりません。
印象的だったのは、食べママの杉山さんがおっしゃっていた「地域住民のみなさんの中には、散布が行われていることすら知らない方もたくさんいる」という言葉です。現状をどういった立場で受け止め、どのように判断するかという以前に、湘南海岸の砂防林がどのようにして守られ、どんな手順と手法で行われているのかを知ることから始めることが大切なのだと改めて知りました。私たち住民は自分たちの住む場所の現状を知り、お互いの意見を持ち寄る。行政側も住民と丁寧に対話する場を作る。それにより双方が納得し、良い未来が作れるのだと思います。
今いる私たちが知り、考え、知恵を絞ることによって100年、200年後も緑豊かな湘南海岸が維持されていくはずです。